海軍さんと横須賀の歴史を感じる、30分プチウォーク【田浦エクストリーム乗り換え】

阿部 稜平(あべ りょうへい)

JR線田浦駅京急線京急田浦駅は最短でも1.5km以上、歩いて30分かかるほど離れており、「乗り換えとかアリエナイ」駅として地元内外でも有名です。

ところがどっこい、この【エクストリーム乗り換え】ルートには、横須賀市内でも特にディープな近代化遺産が詰まった「田浦・船越地区」の魅力がたっぷり凝縮されているのです。

横須賀いえば軍港の街。江戸時代から国防の要衝とされ、幕末期に「横須賀製鉄所」が設立されてから約180年にわたって日本の海軍力の中核として発展してきました。街中の至る所で当時の面影を感じられるのは、横須賀の持つ大きな魅力の一つ。これを体験しないのはもったいない!

今回は涼しくなってきた秋の横須賀散策におすすめの「横須賀と旧海軍の歴史を感じる、30分のプチウォーキング」をご紹介します!

<INDEX>

・田浦駅に並ぶ、3つの時代のトンネル
・”横須賀の赤レンガ倉庫”も!「旧海軍軍需部倉庫群」
・日本の国防を支え続ける「第二術科学校」
・船越地区の発展を支えた「船越隧道」
・海上自衛隊の中枢!「海上自衛隊船越地区」
・今もなお残る、旧海軍の兵器工場


田浦駅に並ぶ、3つの時代のトンネル

田浦・船越歴史ウォークのスタート地点、JR田浦駅。いざ出発とすぐに歩き出してしまいそうになりますが、それではもったいない!ここにも見どころがたっぷりと詰まっているのです。

田浦駅の横須賀方面を見ると、3本のトンネルが並んでいます。

このトンネル達はそれぞれ明治、大正、昭和と3つの時代に作られたものです。

真ん中にある石造りのトンネルは、明治時代のトンネル。

横須賀線が開通した明治22年(1889)に造られたトンネルで、現在は下り線として使われています。

横須賀線は三浦半島に点在する軍港や砲台の補給線として、陸海軍の強い要請によって建設されました。軍艦の進水式が挙行された際、正式開業前にもかかわらず臨時で列車を走らせた、というエピソードが路線の性格を物語ります。

山側にあるレンガ造りのトンネルは、大正13年(1924)に横須賀線が複線化された時に増設されたもの。
美しいイギリス積みを見ることができるこのトンネルは、現在は上り線として使われています。

海側にあるコンクリート造りのトンネルは、太平洋戦争中の昭和18年(1943)に造られたもの。

こちらは本線ではなく横須賀海軍基地への引き込み線として造られ、軍需輸送で活躍しました。
3つのトンネルの中で一番断面が大きく、木を組み合わせた枠に少しずつコンクリートを打った跡がわかります。

駅のホームという身近な場所ながら、3つの時代、3つの素材でできたトンネルを一目で眺めることができる貴重な歴史遺産が今も生きているのです。


”横須賀の赤レンガ倉庫”も!「旧海軍軍需部倉庫群」

田浦駅の北口を出て海へ向かって歩いていくと、たくさんの倉庫が目の前に現れます。

実はこの倉庫群、旧日本海軍時代に「海軍軍需部長浦倉庫」として建てられた歴史あるものなのです。

田浦駅の真正面に見えるこちらの倉庫は、相模運輸倉庫 第7倉庫。元々は海軍軍需部第一水雷庫といい、魚雷や機雷などを管理する倉庫として使われていました。

戦後になり倉庫群が民間に払い下げられると、捕鯨基地(缶詰工場や石鹸工場)、織物工場など、非軍事産業の拠点として大いに賑わいます。しかし商業捕鯨の規制などを受けて長浦地区の民間産業は徐々に衰退していき、現在では現存する建物のほとんどが再び港湾倉庫として使われています。外観が変わるほどの補強工事された倉庫も多いですが、戦前の建築時や戦後に工場となった時の面影を残す建物も多く、見逃せません。

田浦駅正面の信号を左に曲がって京急田浦・船越方面へ歩いていくと、倉庫群も民間払い下げエリアから海上自衛隊エリアへと移ります。海上自衛隊エリアで最も目を引く建物が、こちらの「旧第二計器庫」。

現在ではトタンやモルタルで外壁を補修された倉庫がほとんどの中、この旧第二計器庫だけは建設当時のレンガ造りの外壁を保っているのです!

現在は「海上自衛隊横須賀造修補給所 N-4倉庫」という名前になっており、自衛隊員さんのお腹を満たす糧食の保管庫として活躍しているようです。


日本の国防を支え続ける「第二術科学校」

倉庫群の横を道なりに進んでいくと、「海軍水雷学校」があったエリアへと移っていきます。

先ほどの旧第二計器庫のすぐ隣には、自衛隊横須賀病院が建っています。

陸海空自衛隊の職域病院として全国に10ある自衛隊病院のうちのひとつで、潜水が体へもたらす影響を医学的に研究するなど、防衛技術研究でも多大な活躍をしてきた伝統ある病院です。運が良ければ自衛隊のトラックなどを見ることもできます!

さらに先へ進むと、海軍水雷学校からの伝統を受け継ぐ「海上自衛隊第二術科学校」です。

海軍水雷学校が田浦の地に開設されたのは明治40年のこと。以来100年以上にわたって日本の海軍教育の中枢として卒業生を送り出し、現在では日本に4つある海上自衛隊術科学校のひとつとして艦艇の機関、技術、情報戦などの教育を担っています。

歴史ある軍施設らしく、敷地の周囲には堀がめぐらされています。この堀を作っている石垣にも注目です!

石の積み方を見てみると、細長い石の小口と長手が交互に現れる積み方、「ブラフ積み」で作られています。美しい見た目が特徴で明治から大正にかけて発展したブラフ積みですが、近年では建築基準法などの関係でほとんど用いられません。

横須賀や横浜は、このブラフ積みの遺構が多く残っていることで知られています。特に猿島千代ヶ崎砲台などが大規模遺構として有名ですが、擁壁としてだけでなく海に繋がる堀として残っている例は珍しいのではないでしょうか?

さらにこのブラフ積みの石垣からは、海軍時代を偲ばせる鉄骨、素焼き土管、木製電柱などの遺構も顔を覗かせています。隊員さんに怪しまれない程度に、ぜひ探してみてくださいね!


船越地区の発展を支えた「船越隧道ずいどう

国道16号線と合流して道なりに進んでいくと、「新船越隧道ずいどう」という看板の立ったトンネルを通ります。

山側には真新しい「新船越隧道ずいどう」、海側には「船越隧道ずいどう」の2本のトンネルがありますが…

さらに海側にはこれら2本のトンネルよりも前に掘られた「田浦隧道ずいどう」が口を開けています。

この船越隧道ずいどう船越地区の発展を支えた重要な存在でした。
江戸時代から人が住んでいた船越地区ですが、横須賀方面からアクセスするには急な山を越える船を使う必要がありました。明治19年に海軍施設が船越に設置されると、交通問題はさらに深刻化します。こうして明治26年に掘られたのが「田浦隧道ずいどう」です。岩が剥き出しの手掘りのトンネルで、残っているのは田浦側の入り口のみ。現在では閉鎖され、通ることはできません。

この田浦隧道ずいどうは関東大震災で落盤が発生し、その時の死者を供養する慰霊碑がトンネル前に建てられています。

田浦隧道ずいどうによって通勤や買い物の便は劇的に改善しましたが、横須賀海軍鎮守府が発展すると軍事上の理由から自動車が通れる道路を整備することを迫られます。こうして掘られたのが2本目のトンネル、「船越隧道ずいどう」です。

船越隧道ずいどうは自動車も通れる本格的なトンネルとして、大正12年に開通します。素掘りだった田浦隧道ずいどうから劇的に改善され、トンネルの入り口や内壁はレンガ積みで作られました。現在はモルタルで補修されていますが、腰壁の石積みやアーチ頂部のキーストーン(要石かなめいし)右横書きで書かれた「道隧越舩」という銘板がいまも歴史を感じさせます。

 

3本目の「新船越隧道ずいどう」が掘られたのは戦後のこと。といっても戦後間もない昭和23年に開通した歴史あるトンネルです。この新船越隧道ずいどうの開通によって、国道16号線の片側2車線化を達成し、現在の交通量にも対応できる高規格道路となりました。

田浦駅と同じく、明治、大正、昭和の3つの時代のトンネルが並ぶ船越隧道。現役の道路施設とあってかなり手が加えられていますが、さまざまな時代の交通事情に思いを馳せながら通ってみると感慨深いものです。


海上自衛隊の中枢!「海上自衛隊船越地区」

船越隧道を抜けると、「船越」と呼ばれる地域です。トンネルを出てすぐ正面に見える神社は、この地の名の由来になった船越神社です。

田浦消防署の手前を右に曲がって、海岸沿いへ向かう路地へ入ります。

道に沿ってしばらく歩くと、目の前に広がる長浦港の絶景!

軍港めぐりでもお馴染みの長浦港ですが、陸からはまた違った角度で見ることができます。
船越地区には「砕氷艦しらせ」や「海洋観測艦」などレアな艦艇が入港することもあるので、軍港めぐりでお気に入りの船を見つけたらここからじっくり眺めてみるのもおすすめです。長浦方面には潜水艦やタグボートの姿もよく見えますよ。

艦船を見た後は、艦船が停泊している軍港の施設までじっくり見てみましょう。
船越地区にはたくさんの庁舎が建っていますが、一段高いところにある立派な学校のような建物が目立ちます。

この建物こそ、海上自衛隊の中枢

海上自衛隊の保有する艦船や航空といったすべての戦力の司令部である「自衛艦隊司令部」、海上自衛隊が保有するすべての潜水艦を司る「潜水艦隊司令部」、装備品の新技術の研究を一手に担う「開発隊群司令部」など、海上自衛隊にとって欠かせない7つの組織の司令部がここに詰まっています。

他の建物と比べると、なんだかどっしりと構えた風格がある気がしませんか?


今もなお残る、旧海軍の兵器工場

さて、長浦湾の景色から山側へ目を移すと、少し古びた工場がずっと続いているのが見えます。

この工場の敷地に沿って歩いていきましょう。

港沿いにある何気ない工場にも、海軍さんの歩んだ歴史が詰まっているのです。

この場所は旧海軍の「横須賀海軍工廠造兵部よこすかかいぐんこうしょうぞうへいぶ」として整備されたエリアで、文字通り「海軍さんの兵器工場」として稼働していました。戦前からの建物もいくつか残っており、当時の様子を偲ぶことができます。

こちらは明治19年の工場開設時から残る、煉瓦造りの「鍛錬工場事務所」。

工場入口の立派な門柱は記録にある限りでは大正時代から残るもので、今も現役です。

当時は機銃、大砲、無線兵装などを製造していましたが、現在は「東芝ライテック」の工場として照明関連のシステム機器などを製造しています。現役の工場として稼働していますが、敷地内には旧海軍時代の貴重な建物が数多くあります。事業所さんの迷惑にならない程度に、ぜひ工場として稼働し続ける近代化遺産の息吹を感じてみてください!


東芝ライテックさんの敷地に沿って歩くと、再び国道16号線に合流します。ここを右に曲がれば、ゴールの京急田浦駅はすぐそこです!

今回のルートは大人の足で約30分、道中じっくり見ながら歩いても1時間程度で踏破することができます。

横須賀に残る数々の近代化遺産は、なんといっても今も現役の施設が多いことが魅力です。
観光地化されたレトロ建築と違って、軍事施設や工場敷地など立ち入りが制限される区域にあるものも多いですが、逆に「建造当時から稼働を続ける姿を、当時の人々と同じ角度から見学する」という貴重な体験を与えてくれる数少ない遺産群といえるでしょう。

JRから京急への乗り換えついでに、明治から令和まで続く近代化の足跡を感じてみませんか?

この記事を書いた人

マニア目線で船&史跡を徹底解説!

阿部 稜平(あべ りょうへい)

2001年生まれ。船舶、海運、海洋科学などの話題を中心に執筆する海事系ライター。同人活動をきっかけに、フェリー、クルーズ船、練習船、軍艦など多様な船舶への乗船と取材を経験。現在は横浜港、横須賀港、東京港をメインに活動中。

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